宝塚歌劇はステージ事業と称される頃から変化を。

植田紳爾さんの稽古は、18時か18時半には終了した。
それだけに当時は、稽古の後、皆で集まって食事を
することが頻繁に出来た。
宝塚南口に「かつき」という名前の店があり、そこで
集合しよとう稽古場で上級生が言うと皆集まった。
昭和51年、52年頃は、各地に劇場が少なく、
今のような追われるような各劇場での公演続きで
なく、ゆとりがあった時代だ。
京都の南座で舞台があると、宝塚の生徒さん達に
観に来て欲しい、招待するからという時代だった。
実際に南座で公演したハムレットには星組の希望者
全員を招いた。
歌舞伎も生徒が観劇する余裕があった時代。それが
舞台で和物をする時に演技のプラスにもなっていた。
飲食するところで、稽古の後、演出家と出会った
お陰で、生徒への理解度が深まったケースもあった。
小林米三さんが理事長時代に歌劇の昭和36年2月号
から昭和44年2月号迄執筆した見たこと聞いたこと
感じたこと。という本を読むと如何に生徒を演出家を
大事に思いやりを持って接してきたがよく解かる。

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